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米国国立図書館に保存されたアメリカ陸軍による「朝鮮人慰安婦報告書(1944年作成)」に見る慰安婦の真実



TRUTH ABOUT “COMFORT WOMEN” – U.S. ARMY REPORT in 1944 “A (Korean) Comfort Girl is nothing more than a prostitue attached to the Japanese Army…”.

※ 本記事は、米陸軍が1944年8月10日にビルマで朝鮮人慰安婦を捕獲した際の尋問調書(米国国立図書館に保管されています。)最下部に全文の日本語訳を掲載してあります。アメリカ人のご友人がいらっしゃる方々や、英語圏で慰安婦問題に関して、「慰安婦は強制連行されたものではない」という日本側の主張を裏付ける文書のひとつです。必要に応じて英語圏の方々へ資料としてご利用ください。(各画像をクリックすると大きな画像で原文が読めます。)

ORIGINAL FILES / アメリカ陸軍によるビルマ朝鮮人慰安婦報告書 原文ファイル

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日本語訳全文

政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成より

アメリカ戦時情報局心理作戦班
日本人捕虜尋問報告 第49号 1944年10月1日

アメリカ陸軍インド・ビルマ戦域軍所属
アメリカ戦時情報局心理作戦班
APO689

日本人捕虜尋問報告 第49号

尋問場所 レド捕虜収容所
尋問期間 1944年8月20日~9月10日
報告年月日 1944年10月1日
報告者 T/3 アレックス・ヨリチ

捕虜 朝鮮人慰安婦20名
捕獲年月日 1944年8月10日
収容所到着年月日 1944年8月15日




はじめに

この報告は、1944年8月10日ごろ、ビルマのミッチナ陥落後の掃討作戦において捕らえられた20名の朝鮮人「慰安婦」と2名の日本の民間人に対す る尋問から得た情報に基づくものである。

 この報告は、これら朝鮮人「慰安婦」を徴集するために日本軍が用いた方法、慰安婦の生活および労働の条件、日本軍兵士に対する慰安婦の関係と反応、軍事情勢についての慰安婦の理解程度を示している。

  「慰安婦」とは、将兵のために日本軍に所属している売春婦、つまり「従軍売春婦」にほかならない。「慰安婦」という用語は、日本軍特有のものである。この報告以外にも、日本軍にとって戦闘の必要のある場所ではどこにでも「慰安婦」が存在してきたことを示す報告がある。しかし、この報告は、日本軍によって徴集され、かつ、ビルマ駐留日本軍に所属している朝鮮人「慰安婦」だけについて述べるものである。日本は、1942年にこれらの女性およそ703名を海上輸送したと伝えられている。




徴  集

Japanese_Prisoner_of_War_Interrogation_Report_No._49_p7_SM1942年5月初旬、日本の周旋業者たちが、日本軍によって新たに征服された東南アジア諸地域における「慰安役務」に就く朝鮮人女性を徴集するため、朝鮮に到着した。この「役務」の性格は明示されなかったが、それは病院にいる負傷兵を見舞い、包帯を巻いてやり、そして一般的に言えば、将兵を喜ばせることにかかわる仕事であると考えられていた。これらの周旋業者が用いる誘いのことばは、多額の金銭と、家族の負債を返済する好機、それに、楽な仕事と新天地――シンガポール――における新生活という将来性であった。このような偽りの説明を信じて、多くの女性が海外勤務に応募し、2、3百円の前渡金を受け取った。

 これらの女性のうちには、「地上で最も古い職業」に以前からかかわっていた者も若干いたが、大部分は売春について無知、無教育であった。彼女たちが結んだ契約は、家族の借金返済に充てるために前渡された金額に応じて 6ヵ月から1年にわたり、彼女たちを軍の規則と「慰安所の楼主」のための役務に束縛した。

 これらの女性およそ800人が、このようにして徴集され、1942年8月20日ごろ、「慰安所の楼主」に連れられてラングーンに上陸した。彼女たちは、8人ないし22人の集団でやって来た。彼女たちは、ここ からビルマの諸地方に、通常は日本軍駐屯地の近くにあるかなりの規模の都会に配属された。結局、これらの集団のうちの四つがミッチナ付近に到達した。それ らの集団は、キョウエイ、キンスイ、バクシンロウ、モモヤであった。キョウエイ慰安所は「マルヤマクラブ」と呼ばれていたが、ミッチナ駐屯部隊長の丸山大佐が、彼の名前に似た名称であることに異議を唱えたため、慰安婦たちが到着した際に改称された。




性  向

a href=”http://japa.la/?attachment_id=23798″ target=”_blank”>Japanese_Prisoner_of_War_Interrogation_Report_No._49_p2_SM尋問により判明したところでは、平均的な朝鮮人慰安婦は25歳くらいで、無教育、幼稚、気まぐれ、そして、わがままである。慰安婦は、日本的基準からいっても白人的基準からいっても、美人ではない。 とかく自己中心的で、自分のことばかり話したがる。見知らぬ人の前では、もの静かでとりすました態度を見せるが、「女の手練手管を心得ている」。自分の 「職業」が嫌いだといっており、仕事のことについても家族のことについても話したがらない。捕虜としてミッチナやレドのアメリカ兵から親切な扱いを受けた ために、アメリカ兵のほうが日本兵よりも人情深いと感じている。慰安婦は中国兵とインド兵を怖がっている。




生活および労働の状況

Japanese_Prisoner_of_War_Interrogation_Report_No._49_p2_SMミッチナでは慰安婦たちは、通常、個室のある二階建ての大規模家屋(普通は学校の校舎)に宿泊していた。それぞれの慰安婦は、そこで寝起きし、業を営んだ。彼女たちは、日本軍から一定の食料を買っていた。ビルマでの彼女たちの暮らしぶりは、ほかの場所と比べれば贅沢ともいえるほどであった。この点はビルマ生活2年目についてとくにいえることであった。食料・物資の配給量は多くなかったが、欲しい物品を購入するお金はたっぷりもらっていたので、彼女たちの 暮らし向きはよかった。彼女たちは、故郷から慰問袋をもらった兵士がくれるいろいろな贈り物に加えて、それを補う衣類、靴、紙巻きタバコ、化粧品を買うことができた。

 彼女たちは、ビルマ滞在中、将兵と一緒にスポーツ行事に参加して楽しく過ごし、また、ピクニック、演奏会、夕食会に出席した。彼女たちは蓄音機をもっていたし、都会では買い物に出かけることが許された。




料金制度

Japanese_Prisoner_of_War_Interrogation_Report_No._49_p3_SM慰安婦の営業条件は軍によって規制され、慰安所の利用どの高い地域では、規則は厳格に実施された。利用度の高い地域では、軍は料金、利用優先順位、および 特定地域で作戦を実施している各部隊のための利用時間割り当て制を設ける必要があると考えた。尋問によれば普通の料金は次のとおりであった。

1 兵 午前10時~午後5時 1円50銭 20分~30分
2 下士官 午後5時~午後9時 3円 30分~40分
3 将校 午後9時~午前0時 5円 30分~40分

 以上は中部ビルマにおける平均的料金であった。将校は20円で泊まることも認められていた。ミッチナでは、丸山大佐は料金を値切って相場の半分近くまで 引き下げた。




利用日割り当て表

Japanese_Prisoner_of_War_Interrogation_Report_No._49_p3_SM兵士たちは、慰安所が混んでいるとしばしば不満を訴えた。規定時間外利用については、軍がきわめて厳しい態度をとっていたので、多くの場合、彼らは用を足 さずに引き揚げなければならなかった。この問題を解決するため、軍は各部隊のために特定日を設けた。その日の要員として、通常当該部隊員二名が、隊員の確 認のために慰安所に配置された。秩序を保つため、監視任務の憲兵も見まわった。第18師団がメイミョーに駐留した際、各部隊のために「キョウエイ」慰安所が使用した利用日割表は、次のとおりである。

日曜日――第18師団司令部
月曜日――騎兵隊
火曜日――工兵隊
水曜日――休業日、定例健康診断
木曜日――衛生隊
金曜日――山砲兵隊
土曜日――輜重隊

 将校は週に夜7回利用することが認められていた。慰安婦たちは、日割表どおりでも利用度がきわめて高いので、すべての客を相手にすることはできず、その 結果、多くの兵士の間に険悪な感情を生みだすことになるとの不満をもらしていた。

  兵士たちは慰安所にやって来て、料金を支払い、厚紙でこしらえた約2インチ四方の利用券を買ったが、それには左側に料金額、右側に慰安所の名称が書かれて いた。次に、それぞれの兵士の所属と階級が確認され、そののちに兵士は「列をつくって順番を待った」。慰安婦は接客を断る権利を認められていた。接客拒否は、客が泥酔している場合にしばしば起こることであった。




報酬および生活状態

Japanese_Prisoner_of_War_Interrogation_Report_No._49_p3_SM「慰安所の楼主」は、それぞれの慰安婦が、契約を結んだ時点でどの程度の債務額を負っていたかによって差はあるものの、慰安婦の稼ぎの総額の50ないし60パーセントを受け取っていた。これは、慰安婦が普通の月で総額1500円程度の稼ぎを得ていたことを意味する。慰安婦は、「楼主」に750円を渡していたのである。多くの「楼主」は、食料、その他の物品の代金として慰安婦たちに多額の請求をしていたため、彼女たちは生活困難に陥った。

 1943年の後期に、軍は、借金を返済し終わった特定の慰安婦には帰国を認める胸の指示を出した。その結果、一部の慰安婦は朝鮮に帰ることを許された。

  さらにまた、尋問が明らかにしているところによれば、これらの慰安婦の健康状態は良好であった。彼女たちは、あらゆるタイプの避妊具を十分に支給されており、また、兵士たちも、軍から支給された避妊具を自分のほうからもって来る場合が多かった。慰安婦は衛生に関して、彼女たち自身についても客についても気 配りすように十分な訓練を受けていた。日本軍の正規の軍医が慰安所を週に一度訪れたが、罹患していると認められた慰安婦はすべて処置を施され、隔離された のち、最終的には病院に送られた。軍そのものの中でも、まったく同じ処置が施されたが、興味深いこととしては、兵士は入院してもその期間の給与をもらえなくなることはなかったという点が注目される。




日本の軍人に対する反応

Japanese_Prisoner_of_War_Interrogation_Report_No._49_p4_SM慰安婦と日本軍将兵との関係において、およそ重要な人物としては、二人の名前が尋問から浮かび上がっただけである。それは、ミッチナ駐屯部隊指揮官の丸山大佐と、増援部隊を率いて来た水上少将であった。 両者の性格は正反対であった。前者は、冷酷かつ利己的な嫌悪すべき人物で、部下に対してまったく思いやりがなかったが、後者は、人格のすぐれた心のやさし い人物であり、また立派な軍人で、彼のもとで仕事をする人たちに対してこの上ない思いやりをもっていた。大佐は慰安所の常連であったのに対し、後者が慰 安所にやって来たという話は聞かなかった。ミッチナの陥落と同時に丸山大佐は脱出してしまったものと思われるが、水上将軍のほうは、部下を撤退させることができなかったという理由から自決した。




兵士たちの反応

Japanese_Prisoner_of_War_Interrogation_Report_No._49_p4_SM慰安婦の一人によれば、平均的な日本軍人は、「慰安所」にいる ところを見られるのをきまり悪がり、彼女が言うには、「慰安所が大入り満員で、並んで順番を待たなければならない場合には、たいてい恥ずかしがる」そうである。しかし、結婚申し込みの事例はたくさんあり、実際に結婚が成立した例もいくつかあった。

 すべての慰安婦の一致した意見では、彼女たちのところへやって来る将校と兵士のなかで最も始末が悪いのは、酒に酔っていて、しかも、翌日戦前に向かうことになっている連中であった。しかし、同様に彼女た ちが口を揃えて言うには、日本の軍人は、たとえどんなに酔っていても、彼女たちを相手にして軍事にかかわる事柄や秘密について話すことは決してなかった慰 安婦たちが何か軍事上の事柄についての話を始めても、将校も下士官や兵士もしゃべろうとしないどころか、「そのような、女にふさわしくないことを話題にするな、といつも叱ったし、そのような事柄については丸山大佐でさえ、酒に酔っているときでも決して話さなかった」  しばしば兵士たちは、故郷からの雑誌、手紙、新聞を受け取るのがどれほど楽しみであるかを語った。彼らは、缶詰、雑誌、石鹸、ハンカチーフ、歯ブラシ、小さな人形、口紅、下駄などが いっぱい入った「慰問袋」を受け取ったという話もした。口紅や下駄は、どう考えても女性向きのものであり、慰安婦たちには、故郷の人びとがなぜそのような 品物を送ってくるのか理解できなかった。彼女たちは、送り主にしてみれば、自分自身つまり「本来の女性」を心に描くことしかできなかったのであろうと推測した。




軍事情勢に対する反応

Japanese_Prisoner_of_War_Interrogation_Report_No._49_p4_SM慰安婦たちは、彼女たちが退却し捕虜になる時点まで、さらにはその時点においても、ミッチナ周辺の軍事情勢については、ほとんど何も知らなかったようである。しかし、注目に値する若干の情報がある。

 「ミッチナおよび同地の滑走路に対する最初の攻撃で、約200名の日本兵が戦死し、同市の防衛要員は200名程度になった。弾薬量はきわめて少なかった」

  「丸山大佐は部下を散開させた。その後数日間、敵は、いたる所で当てずっぽうに射撃していた。これという特定の対象を標的にしているようには思われなかったから、むだ撃ちであった。これに反して、日本兵は、一度に一発、それも間違いなく命中すると判断したときにのみ撃つように命令されていた」

    ミッチナ周辺に配備されていた兵士たちは、敵が西滑走路に攻撃をかける前に別の場所に急派され、北部および西部における連合国軍の攻撃を食い止めようとした。主として第114連隊所属の約400名が取り残された。明らかに、丸山大佐は、ミッチナが攻撃されるとは思っていなかったのである。その後、第56歩 兵団の水上少将がニ箇連隊〔小隊〕以上の増援部隊を率いて来たものの、それをもってしても、ミッチナを防衛することはできなかった。

 慰安婦たちの一致した言によれば、連合国軍による爆撃は度肝を抜くほど熾烈であり、そのため、彼女たちは最後の時期の大部分を蛸壺〔避難壕〕のなかで過ごしたそうである。そのような状況のなかで仕事を続けた慰安婦も1、2名いた。慰安所が爆撃され、慰安婦数名が負傷して死亡した。




退却および捕獲

Japanese_Prisoner_of_War_Interrogation_Report_No._49_p5_SM「慰安婦たち」が退却してから、最後に捕虜になるまでの経緯は、彼女たちの記憶ではいささか曖昧であり、混乱していた。いろいろな報告によると、次のようなことが起こったようである。すなわち、7月31日の夜、3つの慰安所(バクシンロウはキンスイに合併されていた)の「慰安婦」のほか、家族や従業員を含む63名の一行が小型船でイラワジ川を渡り始めた。彼らは、最後にはワインマウ近くのある場所に上陸した。彼らは8月4日までそこにいたが、しかし、一度 もワインマウには入らなかった。彼らはそこから、一団の兵士たちのあとについて行ったが、8月7日に至って、敵との小規模な戦闘が起こり、一行はばらばら になってしまった。慰安婦たちは3時間経ったら兵士のあとを追って来るように命じられた。彼女たちは命令どおりにあとを追ったが、結局は、とある川の岸に着いたものの、そこには兵士の影も渡河の手段もなかった。彼女たちは、付近の民家にずっといたが、8月10日、イギリス軍将校率いるカチン族の兵士たちに よって捕えられた。彼女たちはミッチナに、その後はレドの捕虜収容所に連行され、そこでこの報告の基礎となる尋問が行なわれた。




宣  伝

慰安婦たちは、使用されていた反日宣伝リーフレットのことは、ほとんど何も知らなかった。慰安婦たちは兵士が手にしていたリーフレットを2、3見たことは あったが、それは日本語で書かれていたし、兵士は彼女たちを相手にそれについて決して話そうとはしなかったので、内容を理解できた慰安婦はほとんどいなかった。一人の慰安婦が丸山大佐についてのリーフレット(それはどうやらミッチナ駐屯部隊へのアピールだったようであるが)のことうを覚えていたが、しか し、彼女はそれを信じなかった。兵士がリーフレットのことを話しあっているのを聞いた慰安婦も何人かいたが、彼女たちたまたま耳にしたからといって、具体的な話を聞くことはなかった。しかし、興味深い点としては、ある将校が「日本はこの戦争に勝てない」との見解を述べたことが注目される。




要  望

Japanese_Prisoner_of_War_Interrogation_Report_No._49_p6_SM慰安婦のなかで、ミッチナで使用された拡声器による放送を聞いた者は誰もいなかったようだが、彼女たちは、兵士が「ラジオ放送」のことを話しているのを確かに聞いた。

  彼女たちは、「慰安婦」が捕虜になったことを報じるリーフレットは使用しないでくれ、と要望した。彼女たちが捕虜になったことを軍が知ったら、たぶん他の慰安婦の生命が危険になるからである。しかし、慰安婦たちは、自分たちが捕虜になったという事実を報じるリーフレットを朝鮮で計画されていると盂家に活用するのは名案であろうと、確かに考えたのである。




付録A

 以下はこの報告に用いられた情報を得るために尋問を受けた20人の朝鮮人「慰安婦」と日本人民間人2人の名前である。朝鮮人名は音読みで表記している。

    名  年齢   住 所
 1 シン・ジュン・ニミ 21歳 慶尚南道晋州
 2 カク・ヨンジャ 28歳 慶尚南道三千浦〔以下略〕
 3 パン・ヨンジャ 26歳 慶尚南道晋州
 4 シンガ・チュント 21歳 慶尚北道大邱
 5 チュン・ヨンジャ 27歳 慶尚南道晋州
 6 キム・ナンジャ 25歳 慶尚北道大邱
 7 キム・ヨンジャ 19歳 慶尚北道大邱
 8 キム・ケンジャ 25歳 慶尚南道釜山
 9 キム・センニ 21歳 慶尚南道クンボク
             (ママ)
 10 キム・カン・サン 22歳 慶尚南道大邱
 11 キム・チョンギ 26歳 慶尚南道晋州
 12 パ・キジャ 27歳 慶尚南道晋州
             (ママ)
 13 チュン・プンイ 21歳 慶尚南道慶山郡〔以下略〕
 14 ココ・スンイ 21歳 慶尚南道咸陽〔以下略〕
 15 ヨン・ヌジ 31歳 平安南道平壌
 16 オプ・二 20歳 平安南道平壌
 17 キン・トンヒ 20歳 京畿道京城
 18 ハ・トンヤ 21歳 京畿道京城
 19 オキ・ソング 20歳 慶尚北道大邱
 20 キム・ガプトグ 21歳 全羅南道光州

日本人民間人
 1  キタムラトミコ 38歳 京畿道京城
 2  キタムラエイブン 41歳 京畿道京城



Japanese Prisoner of War Interrogation Report No. 49 (October 1, 1944)
by UNITED STATES OFFICE OF WAR INFORMATION Psychological Warfare Team Attached to U.S. Army Forces India-Burma Theater

UNITED STATES OFFICE OF WAR INFORMATION
Psychological Warfare Team
Attached to U.S. Army Forces India-Burma Theater
APO 689

Japanese Prisoner of War Interrogation Report No. 49.

Place interrogated : Ledo Stockade
Date Interrogated : Aug. 20 – Sept. 10, 1944
Date of Report : October 1, 1944
By : T/3 Alex Yorichi

Prisoners : 20 Korean Comfort Girls
Date of Capture : August 10, 1944
Date of Arrival at Stockade : August 15, 1994




PREFACE

This report is based on the information obtained from the interrogation of twenty Korean “comfort girls” and two Japanese civilians captured around the tenth of August, 1944 in the mopping up operations after the fall of Myitkyin a in Burma.

The report shows how the Japanese recruited these Korean “comfort girls”, the conditions under which they lived and worked, their relations with and reaction to the Japanese soldier, and their understanding of the military situation.

A “comfort girl” is nothing more than a prostitute or “professional camp follower” attached to the Japanese Army for the benefit of the soldiers. The word “comfort girl” is peculiar to the Japanese. Other reports show the “comfort girls” have been found wherever it was necessary for the Japanese Army to fight. This report however deals only with the Korean “comfort girls” recruited by the Japanese and attached to their Army in Burma. The Japanese are reported to have shipped some 703 of these girls to Burma in 1942.




RECRUITING

Japanese_Prisoner_of_War_Interrogation_Report_No._49_p7_SMEarly in May of 1942 Japanese agents arrived in Korea for the purpose of enlisting Korean girls for “comfort service” in newly conquered Japanese territories in Southeast Asia. The nature of this “service” was not specified but it was assumed to be work connected with visiting the wounded in hospitals, rolling bandages, and generally making the soldiers happy. The inducement used by these agents was plenty of money, an opportunity to pay off the family debts, easy work, and the prospect of a new life in a new land, Singapore. On the basis of these false representations many girls enlisted for overseas duty and were rewarded with an advance of a few hundred yen.

The majority of the girls were ignorant and uneducated, although a few had been connected with “oldest profession on earth” before. The contract they signed bound them to Army regulations and to war for the “house master ” for a period of from six months to a year depending on the family debt for which they were advanced …

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Approximately 800 of these girls were recruited in this manner and they landed with their Japanese “house master ” at Rangoon around August 20th, 1942. They came in groups of from eight to twenty-two. From here they were distributed to various parts of Burma, usually to fair sized towns near Japanese Army camps. Eventually four of these units reached the Myitkyina. They were, Kyoei, Kinsui, Bakushinro, and Momoya. The Kyoei house was called the “Maruyama Club”, but was changed when the girls reached Myitkyina as Col.Maruyama, commander of the garrison at Myitkyina, objected to the similarity to his name.




PERSONALITY


Japanese_Prisoner_of_War_Interrogation_Report_No._49_p2_SMThe interrogations show the average Korean “comfort girl” to be about twenty-five years old, uneducated, childish, and selfish. She is not pretty either by Japanese of Caucasian standards. She is inclined to be egotistical and likes to talk about herself. Her attitude in front of strangers is quiet and demure, but she “knows the wiles of a woman.” She claims to dislike her “profession” and would rather not talk either about it or her family. Because of the kind treatment she received as a prisoner from American soldiers at Myitkyina and Ledo, she feels that they are more emotional than Japanese soldiers. She is afraid of Chinese and Indian troops.




LIVING AND WORKING CONDITIONS

Japanese_Prisoner_of_War_Interrogation_Report_No._49_p2_SMIn Myitkyina the girls were usually quartered in a large two story house (usually a school building) with a separate room for each girl. There each girl lived, slept, and transacted business. In Myitkina their food was prepared by and purchased from the “house master” as they received no regular ration from the Japanese Army. They lived in near-luxury in Burma in comparison to other places. This was especially true of their second year in Burma. They lived well because their food and material was not heavily rationed and they had plenty of money with which to purchase desired articles. They were able to buy cloth, shoes, cigarettes, and cosmetics to supplement the many gifts given to them by soldiers who had received “comfort bags” from home.

While in Burma they amused themselves by participating in sports events with both officers and men, and attended picnics, entertainments, and social dinners. They had a phonograph and in the towns they were allowed to go shopping.




PRICE SYSTEM

Japanese_Prisoner_of_War_Interrogation_Report_No._49_p3_SMThe conditions under which they transacted business were regulated by the Army, and in congested areas regulations were strictly enforced. The Army found it necessary in congested areas to install a system of prices, priorities, and schedules for the various units operating in a particular areas. According to interrogations the average system was as follows:
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1. Soldiers 10 AM to 5 PM 1.50 yen 20 to 30 minutes
2. NCOs 5 PM to 9 PM 3.00 yen 30 to 40 minutes
3. Officers 9 PM to 12 PM 5.00 yen 30 to 40 minutes

These were average prices in Central Burma. Officers were allowed to stay overnight for twenty yen. In Myitkyina Col. Maruyama slashed the prices to almost one-half of the average price.


SCHEDULES

Japanese_Prisoner_of_War_Interrogation_Report_No._49_p3_SMThe soldiers often complained about congestion in the houses. In many situations they were not served and had to leave as the army was very strict about overstaying. In order to overcome this problem the Army set aside certain days for certain units. Usually two men from the unit for the day were stationed at the house to identify soldiers. A roving MP was also on hand to keep order. Following is the schedule used by the “Kyoei” house for the various units of the 18th Division while at Naymyo.

Sunday ———– 18th Div. Hdqs. Staff
Monday ———– Cavalry
Tuesday ———– Engineers
Wednesday ———– Day off and weekly physical exam.
Thursday ———– Medics
Friday ———– Mountain artillery
Saturday ———– Transport

Officers were allowed to come seven nights a week. The girls complained that even with the schedule congestion was so great that they could not care for all guests, thus causing ill feeling among many of the soldiers.

Soldiers would come to the house, pay the price and get tickets of cardboard about two inches square with the prior on the left side and the name of the house on the other side. Each soldier’s identity or rank was then established after which he “took his turn in line”. The girls were allowed the prerogative of refusing a customer. This was often done if the person were too drunk.




PAY AND LIVING CONDITIONS

Japanese_Prisoner_of_War_Interrogation_Report_No._49_p3_SMThe “house master” received fifty to sixty per cent of the girls’ gross earnings depending on how much of a debt each girl had incurred when she signed her contract. This meant that in an average month a girl would gross about fifteen hundred yen. She turned over seven hundred and fifty to the “master”. Many “masters” made life very difficult for the girls by charging them high prices for food and other articles.
In the latter part of 1943 the Army issued orders that certain girls who had paid their debt could return home. Some of the girls were thus allowed to return to Korea.

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The interrogations further show that the health of these girls was good. They were well supplied with all types of contraceptives, and often soldiers would bring their own which had been supplied by the army. They were well trained in looking after both themselves and customers in the matter of hygiene. A regular Japanese Army doctor visited the houses once a week and any girl found diseased was given treatment, secluded, and eventually sent to a hospital. This same procedure was carried on within the ranks of the Army itself, but it is interesting to note that a soldier did not lose pay during the period he was confined.




REACTIONS TO JAPANESE SOLDIERS

Japanese_Prisoner_of_War_Interrogation_Report_No._49_p4_SMIn their relations with the Japanese officers and men only two names of any consequence came out of interrogations. They were those of Col. Maruyama, commander of the garrison at Myitkyina and Maj. Gen.Mizukami, who brought in reinforcements. The two were exact opposites. The former was hard, selfish and repulsive with no consideration for his men; the latter a good, kind man and a fine soldier, with the utmost consideration for those who worked under him. The Colonel was a constant habitué of the houses while the General was never known to have visited them. With the fall of Myitkyina, Col. Maruyama supposedly deserted while Gen. Mizukami committed suicide because he could not evacuate the men.




SOLDIERS REACTIONS

Japanese_Prisoner_of_War_Interrogation_Report_No._49_p4_SMThe average Japanese soldier is embarrassed about being seen in a “comfort house” according to one of the girls who said, “when the place is packed he is apt to be ashamed if he has to wait in line for his turn”. However there were numerous instances of proposals of marriage and in certain cases marriages actually took place.

All the girls agreed that the worst officers and men who came to see them were those who were drunk and leaving for the front the following day. But all likewise agreed that even though very drunk the Japanese soldier never discussed military matters or secrets with them. Though the girls might start the conversation about some military matter the officer or enlisted man would not talk, but would in fact “scold us for discussing such un-lady like subjects. Even Col. Maruyama when drunk would never discuss such matters.”

The soldiers would often express how much they enjoyed receiving magazines, letters and newspapers from home. They also mentioned the receipt of “comfort bags” filled with canned goods, magazines, soap, handkerchiefs, toothbrush, miniature doll, lipstick, and wooden clothes. The lipstick and cloths were feminine and the girls couldn’t understand why the people at home were sending such articles. They speculated that the sender could only have had themselves or the “native girls” in mind.




REACTION TO THE MILITARY SITUATION

Japanese_Prisoner_of_War_Interrogation_Report_No._49_p4_SMIt appears they knew very little about the military situation around Myitkyina even up to and including the time of their retreat and capture. There is however some information worth nothing:

“In the initial attack on Myitleyna and the airstrip about two hundred Japanese died in battle, leaving about two hundred to defend the town. Ammunition was very low.

“Col. Maruyama dispersed his men. During the following days the enemy were shooting haphazardly everywhere. It was a waste since they didn’t seem to aim at any particular thing. The Japanese soldiers on the other hand had orders to fire one shot at a time and only when they were sure of a hit.”

Before the enemy attacked on the west airstrip, soldiers stationed around Myitkyina were dispatched elsewhere, to storm the Allied attack in the North and West. About four hundred men were left behind, largely from the 114th Regiment. Evidently Col. Maruyama did not expect the town to be attacked. Later Maj. Gen. Mizukami of the 56th Division brought in reinforcements of more than two regiments but these were unable to hold the town.

It was the consensus among the girls that Allied bombings were intense and frightening and because of them they spent most of their last days in foxholes. One or two even carried on work there. The comfort houses were bombed and several of the girls were wounded and killed.




RETREAT AND CAPTURE

Japanese_Prisoner_of_War_Interrogation_Report_No._49_p5_SMThe story of the retreat and final capture of the “comfort girls” is somewhat vague and confused in their own minds. From various reports it appears that the following occurred: on the night of July 31st a party of sixty three people including the “comfort girls” of three houses (Bakushinro was merged with Kinsui), families, and helpers, started across the Irrawaddy River in small boats. They eventually landed somewhere near Waingmaw, They stayed there until August 4th, but never entered Waingmaw. From there they followed in the path of a group of soldiers until August 7th when there was a skirmish with the enemy and the party split up. The girls were ordered to follow the soldiers after three-hour interval. They did this only to find themselves on the bank of a river with no sign of the soldiers or any mea ns of crossing. They remained in a nearby house until August 10th when they were captured by Kaahin soldiers led by an English officer. They were taken to Myitleyina and then to the Ledo stockade where the interrogation which form the basis of this report took place.




REQUESTS

Japanese_Prisoner_of_War_Interrogation_Report_No._49_p6_SM None of the girls appeared to have heard the loudspeaker used at Myitkyina but very did overhear the soldiers mention a “radio broadcast.”

They asked that leaflets telling of the capture of the “comfort girls” should not be used for it would endanger the lives of other girls if the Army knew of their capture. They did think it would be a good idea to utilize the fact of their capture in any droppings planned for Korea.

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  1. 「VICEマガジンよ、お前もか」世界30ヶ国で人気のポップカルチャー誌が 慰安婦問題で日本批判 フェミニストによる偏向記事に疑問も | ロサンゼルス発 ジャパラマガジン®

    […] Photo Courtesy of Meghan_Murphy/Twitter+Vice カタール衛星テレビ局「アルジャジーラ」や、カナダ最大の全国紙 「グローブ・アンド・メール紙」のライター、 ラジオ番組ホストでもあり、カナダ最大のフェミニストブログ「フェミニスト・カレント」の創始者ミーガン・マーフィさんが、4月18日「VICEマガジン」で、慰安婦問題についての寄稿をしました。 「VICEマガジン」は1994年にカナダ・モントリオールからスタートし、アート、ポップカルチャー、ニュース等に焦点をあてた記事や、テリー・リチャードソンらのファッション写真等で、若者を中心に爆発的な人気を得て、現在では世界30ヶ国で配布されている人気のフリーマガジン。以前と比較して、この数年で、より深刻な問題やニュースを扱う傾向にあります。 今回弊誌が取り上げる「VICEマガジン」記事のタイトルは「SEVENTY YEARS LATER, JAPAN IS STILL DENYING SYSTEMATIC SEXUAL SLAVERY IN WWII(70年たっても、日本はまだ第二次世界大戦中の組織的な性奴隷制度を否定している)」というもの。 同記事で、筆者であるミーガン・マーフィさんの主張の背景にあるのは、12人の元中国人慰安婦の証言をもとにした「Chinese Comfort Women: Testimonies from Imperial Japan’s Sex Slaves」という本の著者ペイペイ・チウ博士(DR.PEIPEI QIU)への電話インタビューのようですが、慰安婦問題に対する知識の少ない読み手にとっては、より衝撃的な内容が羅列されています。でも、私たち日本人としては、この記事を100%鵜呑みにしてしまうのは危険なことなので、丁寧に読み解いて冷静に分析した上で、場合によってはマーフィさんと「VICEマガジン」に、きちんと反論する必要もあるかもしれません。 「慰安婦問題」と言えば、これまでニューヨークタイムズやワシントンポストのような主要メディアが扱うのはたびたび目にしてきましたが、「VICEマガジン」のように、より若者を対象にしたカルチャー系のフリーマガジンが、根深くて繊細な問題を、こんなに浅く一方的な意見だけで取り上げてしまったこと、そして反日感情を煽るかのように、日本を「OPPONENT(敵、相手、反対者)」という言葉で表現していることはとても残念です。 「VICEマガジン・ジャパン」がこの記事をどう扱うのかにも注目したいところですが、現時点では日本語による記事は見当たらないので、ジャパラでは同記事の全文日本語訳を紹介するとともに、後半で筆者の意見を述べさせていただきたいと思います。 その前に、話が少しそれますが、慰安婦問題で話題にあがる「テキサス親父」と呼ばれる人物がいます。グレンデールの慰安婦像に、紙袋を被せて、旭日旗や日の丸を手に記念撮影をするなどして、韓国側を挑発する写真をインターネットにあげたアメリカ人男性です。 日本はいつからあのような行為を肯定し、英雄扱いするようになったのでしょうか。 (それが売名行為だとしても)日本をサポートしようとしてくれる気持ちには、感謝するべき部分もあるかと思います。ただ、日本人はああいう行動をしません。よしとしません。彼がしたことというのは、靖国神社に落書きしたり火をつけたりするのと同じ思考回路です。そして、彼は人気取りのために、日本にとって都合のいい、気持ちのいい話しかしません。そこの判断をせずに、他力本願的な考え方で、右に習えで誰かに乗っかるだけであれば危険なことですし、問題の解決にはならないでしょう。そこが私たち「日本人の悪いところ」だと思います。慰安婦問題や領土問題などは、感情的になりやすいものではありますが、それに任せて相手側と同じような低俗なアプローチをしてしまい、本来の「日本人らしさ」や「日本人の良いところ」を見失ってしまうのであれば、国として、こんな大きな損失はないのではないでしょうか。 また今回の記事で、ミーガン・マーフィという女性を、日本の読者の皆様の前に祭り上げて批難し、みんなで懲らしめようと企んでいるわけではありません。彼女の主張は、女性の人権を守るということで一貫しており、「フェミニスト」に慰安婦問題について歴史学者並みの知識を求めるのは無理があるでしょう。 何はともあれ同記事の全文日本語訳をまとめしたので、ぜひ読んでみてください。(原文と比較して間違った点などを発見された場合は是非ご指摘ください。) 慰安婦問題に今まであまり興味が持てなかったり、苦手だという方は、まず弊誌過去記事に目を通していただくと、少しは助けになるかもしれないので、先にこちらからお読みください。(第一弾だけでOK。第二弾は後半だけで十分です。) 1 ) 慰安婦問題 in ロサンゼルス 第1弾 – ロサンゼルス・グレンデール市に設置された従軍慰安婦記念像を実際に見てきたから報告するよ。 2 ) 慰安婦問題 in ロサンゼルス 第2弾 – ホントはもっとドロ臭かった韓国人老夫婦とのやりとりと筆者のホンネ 3 ) 慰安婦問題 in ロサンゼルス 第3弾 – 慰安婦像設置案を一蹴したブエナパーク市長エリザベス・スイフトさんの発言が素敵だっ! ( 以下、原文日本語訳 ) 70年たっても、日本はまだ第二次世界大戦中の組織的な性奴隷制度を否定しているby ミーガン・マーフィー 『Chinese Comfort Women: Testimonies from Imperial Japan’s Sex Slaves』によると、第二次世界大戦中に、大勢の中国人女性と少女が性奴隷にされた。画像は、ウィキメディアコモンズより 「慰安婦」という言葉は、第二次世界大戦中の日本の軍隊によって、およそ20万人の中国人女性や少女が誘拐され、性奴隷にされた現実を覆い隠す。(日本の占領下にあった韓国・中国・フィリピンで合計40万人の女性及び少女が奴隷にされたと推定される。)この言葉は、とても聞き心地の良い言葉だが、生存者によれば、それは毎日レイ○され、拷問され、時には死に至ったり、回復不能な傷を負ったりするような日々だったという。こうした「女性」の多くは女性などではなく、生理がはじまるやいなや「慰安所」に押し込まれた少女たちだった。 「女性たちは軍の性的開放のためだけにいるのではなく、軍隊に所属している」という概念は、慰安所の存在と正当性の基礎になっていた。『慰安婦 – 朝鮮と日本における性的暴力と植民地支配の記憶』の著者であり研究者のC・サラ・ソーによると、慰安婦システムは「軍隊のセックスへのアクセスを制度化することで、軍隊をコントロールする」という目的があった。 70年の間、中国人「慰安婦」の存在は、戦後の日本に関する話題から消去されてきた。この女性や少女たちへの人権侵害が公の場で話されるようになったのはごく最近のことなのだ。 『中国人慰安婦 – 大日本帝国の性奴隷たちの証言』の著者であるペイペイ・チウ博士は、私との電話で泣き始めた。彼女の話は本当に耐え難いものなのだ。 チウがインタビューした生存者のひとりは、ある女性とまだ十代の少女が生きたまま埋められるのを目撃したという。彼女の話によると、ひとりの兵隊が少女の体にどんどん土をかけ、時々手を休めては彼女が死ぬのを笑って見ていたそうだ。 別の生存者であるレイ・グイインは、地元の町が日本軍によって占領されたときは、まだたったの9歳だった。14歳、15歳といった年上の女性たちを連れて行き、性的に拷問をして、死んだまま置き去りにしていくのを目撃したという。貧困に陥り、ストリートで物乞いをし、グイインは子守や小間使いとして、唐山市の慰安所で働くようになった。13歳になって生理がはじまると、「おめでとう、これでお前もオトナだ。」と言われ、部屋に送られて、そこで兵隊に乱暴にレイ○された。彼女は最後にはなんとか(慰安所から)脱出することが出来た。 同書の初版は英語で、第二次世界大戦中に性奴隷にされた中国人女性について書かれている。12人の中国人の生存者が、毎日、座ることも歩くこともできなくなるまで、一日に何度もレイ○されたといった話が含まれている。女性たちは今日でも、深刻な精神的トラウマや、頭痛、記憶喪失、その他肉体的・医学的な問題に苦しんでいる。同書が出版されて以来、賠償されることも、認知されることも、正義を見ることもないまま、すでに多くの女性たちこの世を去った。 チウは、こうした詳細が、社会的、政治的、文化的な勢力に露出すること自体が、彼女たちを生涯苦しめているということを指摘している。言い換えれば、慰安婦の女性たちが経験した虐待は、戦争だけに限らず、極度の貧困生活や、植民地支配、人種差別、さらに男性優位の文化にも関係していて、それが「女性の性労働」を商品化するという。 日本政府が関与を否定し続け、彼女たちの過去を歴史から消し去ろうとすれば、彼女たちのトラウマは生涯続くだけである。 敗戦が近づくと、日本軍は意図的に証拠を破壊した。また、保守派や新国家主義の活動家、そして日本の政府関係者は、戦争犯罪はなかったと主張しており、最近では「アメリカがでっちあげたもの」だと言っている。 慰安婦問題と彼女たちの証言が注目を集めはじめたのは、1990年代になってからではない。1992年に、歴史学者の吉見義明が、女性たちを慰安所に連行する際に、軍が直接的に関わっていたことを証明する戦争資料を発見した。この発見が、それまで多くの学者やフェミニスト団体によって始められた慰安婦救済運動の考え方と一致し、生存者たちが前に出て、戦時中に何があったのかを証言をしはじめたのだ。 しかし、敵は事実を隠すことを止めようとしない。日本の国会議員300人が、カリフォルニア州グレンデールに設置された慰安婦像の撤去請願にサインをした。彼らは、「間違ったプロパガンダ」だと主張した。また、オーストラリアに別の記念像を設置する案に対しても、日本から激しい抗議があった。つい先月のことだが、日本の総理大臣である安部晋三は、慰安所に対する日本政府や軍の公式的な関与があったことを否定、女性たちは民間の売春宿で自らの意志で働いていた売春婦であると主張した。 生存者たちは話をするたびに傷を深める。彼女たちは、恥や困惑、差別を経験し続けている。戦争が終わっても、彼女たちの多くは、敵に奉仕した、不道徳で「悪い女たち」とみなされたと、チウは言う。ルー・シュウツェンは、慰安所から逃げ出して、家のある村に帰ってきたが、「敵にレイ○されたから、村の人たちが私の噂をするんです。私が日本兵と寝たんだって…。村の人たちは、日本兵に体を汚された人間は、不運を持ち込むだけで、何もいい事がないって信じていました。」 私たちが戦争や戦争の犠牲者について話すとき、女性のことはめったに話題になりません。戦争当時の話は、男たち同士で戦われた英雄的な戦闘の話や、兵士たちの苦しみや死を偲ぶ話ばかりです。戦時中に残酷な扱いを受けたり殺されたりした女性や少女たちを、国を上げて追悼するような日はありません。しかし、戦争における悲劇や不法行為は、女性や少女たちを日々犠牲者にしています。慰安婦は、この抹消のシンボルであり、戦争によって女性や少女たちがどのように犠牲になったかを認識し、取り上げることは私たちの責任です。 チウは、人種的な要素も起因すると言う。「慰安婦が長年のあいだ話をしなかったのは、犠牲者である彼女たちがアジア人だからです。例えば、政治犯に関して、戦争犯罪が糾弾されるときに、注目されるのは白人の男性です。(アジア人女性は注目されないという意味か。)」 (日本が)これらの残虐行為を否定することは、慰安婦システムの犠牲者を傷つけるだけではない。チウは言う。「もし、歴史的真実が話されなければ、同じことが繰り返される。」敵がどんな主張をしようとも、生存者の証言は、日本政府の否定に対する力強い反論になります。何度も同じ話を繰り返させられることで、女性たちは耐え難い痛みを経験しますが、これ以上、歴史に埋もれさせてはならないのです。 ※ もし、今月カナダにいるのであれば、4月27日にバンクーバー公立図書館で、ペイペイ・チウが公演をします。 ツイッターで、ミーガン・マーフィをフォローしてください。 ( 原文日本語訳はここまで ) ミーガン・マーフィさんの寄稿を読んでVICEの記事トップの画像は、終戦後に米軍が撮影した写真で、ウィキメディアには「連合国によるアンダマン諸島の再占領(1945年)- 日本人によってペナン島から強制連行され、軍隊のために’慰安婦’ として働かされた中国人とマレー人の少女たち」という説明があります。 彼女たちが、日本軍によって、暴力的な強制連行をされたのなら、なぜ慰安所に3歳や4歳程度にしか見えない子供たちも連れていて、みんなこんなに小奇麗な格好をしているのか。一番手前でカメラに背を向けている女性は慰安所を管理していた業者側の女性ではないか。ひとつひとつ疑問に感じてしまいます。(米陸軍による「朝鮮人慰安婦報告書(1944年作成)」の内容とは一致する。) それならば、彼女たちの住んでいた地域の極度の貧困によって(実の親に売られた、仲介する悪徳業者に騙された、という話もあるように)、彼女たちが売春婦として働くことで得られる収入と、性的欲求を満たしたいという軍の男性たちとの利害関係が一致したため、そこにビジネスが発生したと考える方が、しっくり来ます。だからこそ、戦後、村に帰ったときに、「お金のために自らの身体を日本兵に売った悪女」としてさげすまれたという話も理解できます。日本軍によって、村の女性が目の前で無理矢理さらわれ、彼女たちが命からがら逃げ戻ってきたのであれば、村人達がそのような態度をとるとは考えにくいように思えます。 「日本軍将兵を追いかけて川を渡る慰安婦」ウィキペディアより 「軍慰安所従業婦等募集に関する件(陸軍省兵務局兵務課起案。1938年3月11日大臣官房決裁)慰安婦の募集に当たり誘拐などを行い軍の威信を貶める悪徳業者による斡旋を禁じる通牒。梅津美治郎次官、今村均兵務局長の捺印済」ウィキペディアより ただ、被害に遭ったという慰安婦の方々の証言を否定しようとは思いません。軍の主導で各地に慰安所が建設されたのは事実でしょうし、(戦時中は世界中に日本兵が300万人しかいないのに)本当に40万人もの慰安婦がいたと仮定すれば、本人が望まない形で慰安婦として働かされた上に、悲惨な経験をされた方は相当数いたでしょう。 戦争ですから筆舌に尽くしがたい悲惨な出来事は無数にあるはずです。あえて個々の事件・事象を取り上げることはしませんが、戦時中の日本軍が世界中で多くの人々を傷つけた例は数え切れないほどあるわけです。そのひとつとして、日本軍が慰安婦を含めた多くの女性を過酷な環境に陥れたこともあったでしょうから、そこに対して出来ることがあるのならば、日本はきちんと向き合うべきでしょう。 逆に、それさえもしなければ、先方が主張していることの全てが真実であるかのように世界中に流布してしまうでしょうし、してしまったのだと思います。悪意を持ってこの状況を利用する者もいるはずです。 慰安婦問題は、証拠を提示して、ここがウソだ捏造だと、相手を批難して打ち負かすことや国際法廷で勝つことは、解決策にはならないと思います。目的が勝ち負けに終始してしまえば、日の丸を燃やして踏んだり、子供に反日感情を植えつけるような教育をする相手方と同じレベルに身を落とすことになるのではないでしょうか。 また「賠償もなく」とありますが、日本はすでに、日韓基本条約で、韓国には何十億ドルという賠償金を支払っています。慰安婦をその対象から外したのは当該国政府です。中国に関しては日中友好条約で「(中国が)戦争賠償の請求を放棄する」という大前提のうえに、日本は現在に至るまで何兆円ものODA(政府開発援助)を行って来ています。これを「経済協力であり人権については無効」とする主張は受け入れるべきではないと思います。それならば日本が受けた戦争の人権被害はいつ賠償されるのでしょうか。無効とするのであれば、過去の戦争の人権に関する賠償問題として、それは世界各国で普遍的に語られるべきことではないでしょうか。 日本は過去に当該国と交わした条約について譲歩する必要は全くないと考えますが、21世紀に入って人権問題が浮き彫りになっている今、少なくとも感情的や人道的な部分ではできることはあるはずです。言ってしまえば、それが良い意味で前向きなものであれば、戦略的・政治的なパフォーマンスでも良いのです。 ポイントは「いま感情的ないがみ合いをしている相手国と、国際社会の中で共存するための最良の解決策を見つけ出すこと」にあるはずなのです。この視点で考えられずに頑なな態度に終始してしまえば、第二次大戦前夜の日本のように、世界で孤立してしまう可能性もないとは言えません。「悪口外交」などでも知られるように「相手」は、根回しの点では少なくともこれまでの日本よりは上手に見えます。「VICEマガジン」のようなメディアで今回の記事が掲載されたのも、そのひとつの現れでしょう。同記事によれば、来週バンクーバーでチウ氏の講演会もあるようです。 一方で、日本という島国に住む日本人の視点に欠けてしまいがちなのは、グローバルな視点に立って考えることでしょう。「国際社会のリーダー」としてどう貢献できるかという視点です。例えば、学校の教室にいるクラスメイトが、もし韓国くんや中国ちゃんだったら…という視点です。そのクラスには、アメリカくんも、オーストラリアくんも、ドイツちゃんも、ロシアくんも、オランダちゃんもいるわけです。いままでの日本のように、学級会でモジモジしながら小さな声で「ボクあやまんないもん。前に一回あやまったし。お小遣いだって半分あげたし。韓国くんや中国ちゃんがそんなのもらってないって、みんなに嘘ついてるんだもん。」ということではないはずです。 理想は、学級委員長に立候補して、クラスみんなが楽しく学校生活を送れるような解決策を自ら提示することです。今の日本は、国際社会というクラスで、他の生徒みんなから追い詰められて、汚い教室の床で理不尽な土下座をさせられそうな状況にあります。それならば、声を大にして率先して解決策を提示する方が建設的でしょう。 今までも何度か書きましたが、ブエナパーク市長エリザベス・スイフトさんの意見にもありましたように、過去にも現在にも戦争において人権を蹂躙されてきたのは「慰安婦」とされる女性だけではないのです。 アメリカ軍が戦時中・戦後とも日本人女性をレイ○した数は知れません。戦後、日本全国に「安浦ハウス」(上写真)をはじめとするRAAと呼ばれる米軍向けの特殊慰安施設が作られた背景を知って驚く読者も多いでしょう。米軍は、終戦直後にも日本全国でわかっているだけでも、数千人数万人という日本人女性を組織的にレイ○するという性犯罪を犯しています。大人はもちろん、武蔵野市の小学校を囲んで子供たちを集団強姦したり、4歳の幼児を強姦といった話もあります。沖縄では終戦後から今にいたるまで米兵による少女暴行事件は繰り返されてきました。 また朝鮮戦争時には韓国は何万人ものベトナム人女性をレイ○・殺害しています。現代における、韓国による国際的な人身売買の深刻化も指摘されています。中国では新疆ウイグル自治区や、チベット自治区といった地域で「民族浄化」と呼ばれる、現代とは思えないような大量虐殺が行われています。何十人、何百人の妊娠した女性のお腹を切り裂いて取り出した胎児を並べられた写真などが散見されます。そしてそのほとんどが、大手のメディアでは報道されません。 おそらく、こうしたことまで把握せずに、ミーガン・マーフィさんが今回のような一方的な主張に偏った寄稿をされたことは残念に感じます。また「戦争の犠牲者を弔う際に、女性の存在が忘れられている」という彼女の主張にこそ、自ら女性を差別してしまっている矛盾があるということには気付いていないのかもしれません。今回の記事で、マーフィさんが韓国側の主張通りに「慰安婦像は、戦争で人権を蹂躙された女性たちの象徴」と書かれているのを読んで、あらためて、ブエナパーク市の慰安婦像設置を拒否したエリザベス・スイフト市長の意見の全うさを痛感しました。(※ ちなみに当時、慰安婦像設置案を主導していた韓国系のミラー・オウ副市長は、実刑6年4ヶ月に相当する詐欺罪に問われながら、ブエナ・パーク市長になっています。スイフトさんは市議会議員に格下げ。) 今は、戦争のような過去の出来事だけではなく、未来も含めた普遍的な人権問題と向き合うために、世界中のリーダーが膝を突き合わせるべきときなのでしょう。そうであると仮定してでも、日本は「慰安婦問題」を通じて、逆に国際社会で女性の人権問題を解決していくためのリーダーになるチャンスと捉えて前向きに臨む考え方が必要ではないかと思います。日本は唯一、原爆被害を経験している国であり、本来ならば、逆に世界に向けて戦争の恐ろしさを自ら発信していかなければいけない立場にあると思います。でも、いまの日本は、叩かれるばかりで、国を愛する心を持つことも、戦争で亡くなられたご先祖様を、堂々と弔うこともできない。それは間違っていると思うのです。 ただ、日本が国際社会で説得力のある発言力を持つためには、もっと広く知られなければいけない自国に関する歴史的事実がたくさんあります。ニュースやテレビを見るだけで、普通に生活をしている日本人には、よほど自分で興味を持って調べない限り、知りようもないことばかりです。反対に海外では、学校の授業や、(徴兵制度がある国では)兵役期間中に、そうした「日本の歴史」が教えられるようです。当の日本は「平和ボケ」と言われるくらい無頓着なだけに、このギャップはそう簡単に埋まるものではないでしょう。それが一番大きな問題点なのだと思います。やはり、知らないということが一番の罪なのだと思います。 慰安婦問題・太平洋戦争などに関するジャパラマガジンの関連ページ 1 ) 慰安婦問題 in ロサンゼルス 第1弾 – ロサンゼルス・グレンデール市に設置された従軍慰安婦記念像を実際に見てきたから報告するよ。 2 ) 慰安婦問題 in ロサンゼルス 第2弾 – ホントはもっとドロ臭かった韓国人老夫婦とのやりとりと筆者のホンネ 3 ) 慰安婦問題 in ロサンゼルス 第3弾 – 慰安婦像設置案を一蹴したブエナパーク市長エリザベス・スイフトさんの発言が素敵だっ! – 米国国立図書館に保存されたアメリカ陸軍による「朝鮮人慰安婦報告書(1944年作成)」に見る慰安婦の真実 – 従軍慰安婦問題 「朝鮮戦争の写真を大東亜戦争に使って偽装した、あの政府は本当に愚民の象徴だ!」- 女性読者YUISAさんからの投稿 – 日本って国がどうやって出来たか知ってるか?中国共産党の反日教育と第一列島線構想 – ジャパラ終戦記念スペシャル – 広島・長崎原爆投下 – 「なあ、ヒロシマとナガサキと… 原爆で日本人は何人亡くなったんだ?」 「VICEマガジン」記事の関連ページ- ミーガン・マーフィさん公式ツイッターページ – 「フェミニストカレント」オフィシャルウェブサイト – 「フェミニストカレント」フェイスブックページ – SEVENTY YEARS LATER, JAPAN IS STILL DENYING SYSTEMATIC SEXUAL SLAVERY IN WWII < 参考記事 > – 相模原の男性が語り続ける 慰安婦への加害の記憶 – 「カナロコ」神奈川新聞 […]

  2. Anonymous

    他力本願とは、「生きとし生けるものを、漏れ無く救うという阿弥陀仏の誓願、またはその力」という言葉ですが、解説文を読んで、無知による誤用と思いました。
    
他人任せ、などの意味で使っているつもりなんでしょうけれども、言葉や単語を使ってのお仕事でしたら、まず専門的な仏教用語は調べてからお使いになるか、または、適切な単語をお使いになるほうがよいと思います。
    
慰安婦のことに関しては、数的にも、内容的にも、実態と異なる「証言」のウソ、矛盾を広く伝えていくべき段階にあります。
    
日本人業者?の件については、戦後も日本人であったかどうかも含め、戦中の業者を対象とした調査や詳細な実情を明らかにした史料の発見があれば、もっとよく判りそうです。
    
現在まで判明している範囲では、ひどい騙しや強圧的募集には朝鮮半島の業者が多く摘発された記事がありました。
    
が、しかし、軍がこれら強圧的な募集に関与はしていた史料はありません。

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